2016年4月12日火曜日

ソウルサーファー:BEARING THE TORCH by Andrew Kidman



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 2011年冬、韓国系オーストラリア人のサム・ユンはカウアイ島に家族と滞在していた。妻のエッコとモアナとレノという二人の子供とバンでキャンプしていたとき、彼はジョーズのパイオニアサーファー、ライル・カールソンからメールを受信した。「ジョーズ金曜日」
 二日後ユンの家族はジョーズの崖の上にテントを張った。「その夜、波の砕ける音を聞きました」とユンは語った。「エッコは僕がサーフするのを知って不安に思っていました。子供達は何が起こるのかはわかりませんでしたがただならぬ気配は感じていました」
翌朝、夜明け前にユンはピアヒへとパドルアウトした。ボードは彼がクイーンズランドでシェープした重いシングルフィンだった。「誰かが崖を下っていくのが見えたらもう我慢ができなかった」とユン「それに波を観察しすぎると恐怖感が増すんだ」まだ海は漆黒でチャンネルには誰もいなかった。ユンは最初の波を捉えた。「暗くて何も見えなかった」とユン「それは古いテレビのようにゆっくりと始まった。ドロップをメイクしたいと思っていた。夢が実現した喜びで僕の体は震えた」カールソンはユンにこう言ったことがあるという。「ジョーズの一本は人生を変える」セッションのあと私はユンにそのことを質問した。「生まれ変わったような気分だ」ユンは語った「もう一度小さな波からサーフィンを始めたい気分だ。高い山を征服した登山家が、もっと高い山を征服したくなるような気持ちとは違う」ユンがジョーズをサーフした日。ネーザン・フレッチャーとギャレット・マクナマラが崖の上にいるユンを見つけて彼のサーフボードについて質問してきた。ユンのボードは典型的な大波用のボードとは異なっていて、ナックルノーズとユンが呼ぶソフトなカーブ形状をしていた。


「ボーイング737やスペースシャトルのようにしたかったんだ」とユン「ずんぐりした形がノーズダイブで刺さるのを防ぐんだ」私はヨンがそのボードでサーフするのを目撃したことがあった。オーストラリアでのことだった大波に遅れながらも彼はワンストロークでテイクオフした。私は、底から掘れ上がった波で彼がそのままパーリングすると思った。しかし突如そのノーズが海中から飛び出し、ユンはレールをセットして猛スピードで走り抜けた。あのような光景を私は初めて見た。




 ユンは波だけでなくすでに子供のころから逆境に直面していた。韓国で生まれたユンは12歳で家族とともにオーストラリアで移住した。シドニーの郊外に移ったそこはほとんど白人だけの社会だったためにユンと兄弟は学校でイジメの餌食となった。「初めて登校した日に弟が糊のバケツを頭から掛けられたよ」とユン「毎日そんな調子だった。戦いたくはなかったが兄弟を守るためにはしかたがなかった」そしてユンは不良の道を突っ走ることになる。13才のときには親友が車を盗み警察に捕まるまで数週間その車を乗り回した。
「パトカー7台とカーチェイスをしたんだ」とユン。保護されて家に戻ってもすぐにユンは家を抜け出した。友人とブリズベンへと逃げようと計画をし結局サーファーズパラダイスへとたどり着く。2人はバックパッカーのコミューンに紛れこみしばらく暮らすが最後は発見されて家に連れ戻される、だがそのときにユンはサーフィンと出会い、15才になると再びゴールドコーストに戻り本格的にサーフィンに没頭する。

 そしてユンは将来の伴侶となる日本人女性エッコと出会う。二人はすぐに意気投合しオーストラリアだけでなく9年間も世界中を旅して回るようになった。「可能なかぎり節約して旅を続けました」とユン「行き先では地元の人とできるだけ同じように暮らして彼らを理解しました。彼らの文化を直接知ることが大切だと考えたからです」
西オーストラリアではユンは管理人の仕事を半年続けた。また種子島では道路工事の仕事もしてエッコは工事の旗振りをしたという。サンディエゴではユンはコリアンレストランとスーパーマーケットそしてカラオケバーを1日でこなしたこともあった。
フィリピンで金が尽きたときはクロウド9のTシャツを作って売り、次の3ヶ月は暮らしていけるくらい稼いだ。その旅行の間、彼らはサーフィンのスキルを磨いた。モーリシャス、モザンビーク、スリランカ、インドネシア。
日本ではフジという人物からシェーピングルームに招かれてサーフボードを作ってみないかと誘われた。「ミスターフジはどうやって道具を使うか見せてくれたんだ」とユン「でもシェープについては語らなかった。僕は自分でサーフボードを作ってみたいと願うようになった」彼はその気持ちが心の中で燃えるのを感じた。

 そして二人はハワイへとたどり着く。もちろんユンの目的は波だが、ハワイの多種多様の民族が交流する文化にユンの心は大きく揺さぶられることになった。腹が減ればキムチや白米を食べることができるハワイが、ユンにとって家に戻ったような気持ちにさせたからだ。


 『カウアイに着いて初めてスーパーマーケットに行くと男がやってきて僕を抱きしめたんだ「おまえどこにいたんだ?おまえが戻ってくるのを長いこと待っていたんだぜ」「兄弟、生まれて初めてここに来たんだよ」と僕は答えた』
 ユンたちはこの島の住民とすぐに打ち解けた。「僕とエッコを家族のように扱ってくれた。つまりオハナ(身内)として」とユン「箱に食べ物を入れて与えてくれるんだ。平らげるとまた補給してくれる。それは最高の人生の生き方。手に入れたものをみんなでシェアする。それこそ人生の価値なんだ」

 2005年ユンとエッコはゴールドコーストに戻り清掃業のビジネスを始め、その傍らでユンはハワイ用のサーフボードをシェープするようになる。そしてユンはアラン・バーンと親交を築く。バーンのシェープルームがユンの家のすぐ近くだったため、バーンが家へよく立ち寄るようになる。彼らはサーフボードのクラフトマンとして絆を深める。ユンはバーンの仕事をまるで子供が父親を習うように観察する。
 2013年、ユンはパイプの波を乗る決意をしてバーンにボードを注文する。それは1981年のパイプマスターズでサイモン・アンダーソンに次いで二位になったときのボード、シングルフィンのチャンネルボトム10’4”だ。
「可能なかぎり厚くそして重く作って欲しいと彼に注文したんだ」
その年の2月、彼はそのボードでパイプをサーフした。エイジアンであることを利用し、誰もがハワイアンだと悟らせてのセッションだった。そのなかにはケリー・スレーターもいた。
セッションのあとにケリーが私に質問してきた。
「あいつは誰だよ、上手いサーファーじゃないか」
「そうだろう」
「どこから来たんだ」
「ゴールドコーストだよ。本業は清掃業さ」
「マジで?」とケリーは当惑した。

 ユンのゴールドコーストの家は1950年に建てられた小さな家。彼は冷たい日本茶を私に煎れてくれた。家のなかは甘い香りがしてオアフのノースショアーに居るような雰囲気だ。テレビにはデンジロー・サトーの自主製作映画が流れている。それはロニー・バーンズ、マックス・マデリオス、ジェリー・ロペスそしてジョニー・ボーイ・ゴメスらが80年代にサーフしたパイプの映像で、ギターのソロが重なっていた。
「30年早く生まれることができたら良かったなと思うんだ。60年代後半から70年代前半だね」とユンはいう「その時代がすばらしいと思う、その時代のボードが好きなんだ」
ユンとの会話が発展してサイモン・アンダーソンを紹介しようと私は思い立った。サイモンは試合観戦でゴールドコーストにやってきていたからだ。それに私はサイモンのオリジナルスラスターを預かっていて返却しようとも思っていた。だからその前にユンに見せてあげてもいいだろうかと聞いてみた。するとサイモンはユンとあってユンのボードを見たいと言ってきた。
そこで私はバーンに電話をしてユンの家に集まらないかと誘った。
バーンとアンダーソンは1981年のマスターズ以来、顔を合わせたことはなかった。その年大波のベルズとパイプで勝利したサイモンのスラスターはサーフィンの歴史を変えた。「お前は俺の人生をめちゃくちゃにしたんだ」とバーンはジョークをサイモンに言った。
「そのボードはくだらないね」とバーンは冷やかした。
「お前はその恩恵を授かったんだよ」とサイモンは大声で笑った。


 そして裏庭の椅子に腰掛けるとユンが火を灯し、サーフィン談義が始まった。アンダーソンはユンのボードに興味を持った。ユンはアンダーソンにガンを作ることについての意見を求めた。アンダーソンはユンのやり方については気にっていたが、ただボードがどう機能するかは、大きな波(訳注おそらくジョーズのような)に乗ったことがないから理解できないと言った。和やかな会話が終わり新旧の友情が交わされ抱擁とともにそれぞれが別れを告げた。(バーンの不幸な事故がバリで起きたのはそらからまもなくのことだった)家路の途中でアンダーソンはユンのサーフボードについて語った。「ユンのやっていることは驚きだね」とアンダーソン「あれは私たちが育っていた昔のままだ。世界中のバックヤードシェーパーが独創でサーフボードを作っていた時代だった」そしてアンダーソンはこう締めくくった「そのスタイルが今も続いているなんて最高だよ」
(訳文は一部省略いたしました。了承願います)


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